【恩愛の夜明け(サンプル)】

 夕方から降り始めた雪がウィーンの町並みを白く染めていく。ミュンヘンからの旅の途中、ザンクト・ペルテンに辿り着いた日に初雪が降った。これからいよいよ本格的な寒さが始まり待降節も近づいてくる。ウィーンはハプスブルク家のお膝元だ。クリスマス市もさぞ賑やかな事だろう。ジムゾンは窓の外から視線を逸らして温かな香草茶を一口飲んだ。見てみたい気持ちもあるが、のんびり観光をする為にここまで来たわけでは無かった。
「立派なお屋敷ですね」
 ジムゾンはすぐ横に腰掛けているディーターに顔を向けた。
「宮廷図書館の司書ともなればな」
 ディーターは短く呟いて香草茶入りのカップを口に運ぶ。
「私てっきり、王宮にお住まいかと思っていました」
 ジムゾンの言葉を聞いてディーターは笑みを漏らした。
「無い無い。召使ならともかく、司書官だぞ。書記顧問と兼任なんだから所謂宮中伯ってのだ。立場としてはお前の親父さんより上だな」
 ジムゾンは目を丸くし、改めて室内を眺め回した。美しい刺繍が施された厚手の絨毯や、しっかりした造りの飾り戸棚など立派な調度品ばかりだ。宮中伯、つまり大臣の身分とあらばこれだけの品物が揃えられているのも納得がいく。
「お待たせしました。あ、いや、どうぞかけたままで」
 不意に扉が開き、男が入ってきた。年の頃は四十代後半、眼鏡をかけた穏やかな風貌のこの男こそが、クララの雇い主である司書官ライナー・フォン・ケッセルリングだった。ジムゾンはライナーに勧められるまま、同じく立ち上がったディーター共々再び長椅子に腰掛けた。バイエルン大公の甥とはいえ、一介の司祭とその連れにこれだけ丁寧な貴族も珍しい。素性もはっきりしない平民のクララを傍近く置いていた事からしても、ライナーはあまり身分などを気にする人間では無いようだ。一通りの挨拶を終えて、暫くは取りとめも無い話が続いた。ジムゾンが飾り戸棚のガラス細工を誉めると、ライナーは照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「元々、この屋敷は家財道具一切含めて貰い物なのです」
 ジムゾンは驚いてライナーに目を向けた。
「立派なものでしょう。以前は私の友人でもあった別な顧問が使っていたのです。彼が田舎に引っ込んでしまって、それからは私が」
 そう言ってライナーは目を細めた。
「ヴァルター・ローエンシュタインと言って、オーストリアでは随分名の知れた男でした」
 ライナーの口から出た名を聞いて、ジムゾンは思わずディーターと顔を見合わせた。ヴァルター・ローエンシュタイン。それはかつて二人が滅ぼしてしまった辺境の村の長の名だった。村長になる以前はどこかの領主の家臣だったらしいと聞いたことがあった。とはいえヴァルターは貴族ではない。皇帝の顧問だったとなると俄かに信じ難く、同姓同名の別人ではないのかと思った。しかし同一人物である可能性も否定はできない。ジムゾンは固唾を飲んでライナーの言葉を待った。
「パドヴァ大学の並み居る教授達をして、最早教える事が無いとまで言わしめた曰く付きの神童で。彼を引き抜いてきた陛下にも随分信頼されて重用されていました。辞めた理由は奥方の療養の為という事になっていましたが、実際は偏向に歯止めのきかぬ宮廷議会に匙を投げたというのが本音でしょう。そして彼の居なくなった後の議会はと言うと」
 ライナーは言葉を切り、首を緩く横に振った。が、すぐに我に返る。
「すみません。つい愚痴が」
「いいんです、いいんです。ところで、そのヴァルターさんにはお子さんがおられませんでしたか。パメラという名前の、娘さんが」
 急いたジムゾンの問いかけに、今度はライナーが驚く番だった。
「ええ!ですが何故それを?」
 ライナーとジムゾンの話を照合すると、お互いの知っているヴァルターが同一人物である事が解った。何時もなら不用意な事を喋るなと止めるディーターも、興奮した様子の二人を黙って見ていた。
「そうですか……まさかヴァルターとお知り合いだったとは」
 一頻り話した後で、ライナーは溜息混じりに呟いた。
「パメラもこの屋敷を出て行った頃はまだほんの小さな子どもでしたが、もう随分と大きくなったでしょう」
 何気ないライナーの言葉に、ジムゾンは一瞬動きを止めた。懐かしさのあまり忘れてしまっていた。ヴァルターもパメラも。自分とディーターが殺めてしまった事を。
 あの村でジムゾンはトーマス以外誰にも手を出さなかった。その為実感がつい薄れてしまっているが、彼らの死の原因は自分にもあるのだ。ジムゾンは改めて、自らの宿命を思い出した。そして今に至るまで命を奪ってきた数名の人の事を。ディーターは一見何も気にしていないように見えるが、実のところそういうわけでもない。彼も彼なりに、人の命を奪って糧とせねば生きられない自らの宿命に負い目を感じている。ずっと一緒に旅をしてきてよく解っていた事だった。にも関らず、直接手を下したディーターの前で無神経に言ってしまった事にも気付き、ジムゾンは自分の軽率さを深く後悔した。そんなジムゾンに気付く事もなく、ライナーは嬉しそうに続けた。
「あの子が生まれた時のヴァルターの喜びようときたら。少し大きくなったら今度は嫁にやる心配ですよ。まだよちよち歩きのパメラをつかまえて、誰の嫁にもやらんと息巻いていたのが本当に可笑しくて」
「そうですね。本当に、本当に」
 ライナーと一緒に笑いながら、何時の間にかジムゾンの瞳からは涙が溢れていた。仕方の無い事なのだ。人狼にとって、人間を喰らうのは人間の食事と同じ事だ。喰わなければ飢え死にしてしまう。そしてこの身に流れる血は、どんなに拒んでも一定条件下で惨劇を引き起こしてしまう。そんな事はとうに解っていた事だった。理解し、受け入れられていた事だった。しかし村を出た後犠牲にしてきた人々と違い、あの村の住人とは一年近く同じ土地で過ごしてきたのだ。特別親しかったわけではないが、よく見知った村の仲間だった。ジムゾンはただあの村での思い出を押し止めるのに精一杯で、彼らの死と村の壊滅をライナーに伝えるのに随分と時間がかかった。

 一転して部屋は悲しみに包まれた。突然の訃報を聞かされたライナーは驚きと嘆きを隠せなかった。
「ヴァルターは最後まで戦に異を唱えていました。徒に戦火を拡大しても、フランスをはじめ諸外国を利するだけで何にもならないのだと。予言どおり国内は荒れ果て、その煽りが、彼と家族にまで」
 ライナーは言葉を詰まらせ、俯いた。あの惨状をジムゾンの口から聞いて傭兵の仕業だと思っているようだった。自分達の、人狼の仕業だと言うわけにも行かず、ジムゾンもまた黙して俯いた。事実、今まで旅をしてきた中で見てきた光景の中には、血の宴以上に凄惨な物もあった。人狼でも考えられないような惨状を目の当たりにして、人狼以上の魔物がどこかに潜んでいるのではないかと思った程だ。げに恐ろしきは人間かな、とはよく言ったものだが。筆舌に尽くし難い光景を生み出すに足る心とは一体どのようなものか。人狼のジムゾンにも想像すら出来なかった。
「ささやかな幸せもお許しにならないとは、神も酷な仕打ちをなされる……」
 そこまで言ってライナーは慌てて顔を上げた。ジムゾンが司祭だと思い出したのだろう。しかしジムゾンは釈明の言葉を待つまでもなく、許しの代わりに静かに頷いてみせた。
 ヴァルターの妻を奪ったのは傭兵だ。そして彼ら親子を殺めたのは自分達だ。神の行いではない。村での真相を知らぬライナーも、悲劇が人為的な物である事は勿論解っているだろう。しかし誰を恨めばいいのか解らない状況では、神を恨んでしまうのも仕方の無い事だった。
「申し訳ない。つい取り乱してしまいまして」
 漸く落ち着いたライナーは眼鏡を外して目頭を押さえつつ、顔を上げた。
「しかし不幸な知らせとはいえ、聞けて良かった。もう一生、何も解らないものと思っていましたから」
 力なく呟くライナーだったが、不意に何かを思い出したようだった。と、同時に今まで黙っていたディーターが口を開いた。
「ジムゾン、手紙」
 ディーターに言われてジムゾンも漸くここまで来た目的を思い出した。ディーターから受け取った書簡を手に、ジムゾンは改めてライナーに向き直った。
「ごめんなさい、うっかりしていました。……こちらが、クララさんからのお手紙です」
 伯父にライナー宛ての書簡を頼んだ際、ジムゾンの走り書きも同封して貰っていた。伯父に事情を話すわけにもいかず、こうやってライナーに真の用件を伝えていた。勿論、万一誰かに見られても解らないようにぼかして、だが。
 ライナーはジムゾンから書簡を受け取ると、神妙な顔つきで封を切った。ライナーの目は静かに手紙の文字を追う。ジムゾンとディーターも黙ってそれを見守り、室内には暖炉の火の燃える音だけが響いた。沈黙の中、ライナーの表情は徐々に険しくなっていく。暫くしてライナーは手紙を読み終え、小さく唸って目を閉じた。
「どうかされましたか」
 不安げなジムゾンの声を受けてライナーは目を開けた。が、すぐに返事はせず少しの間何事か考えているようだった。
「この書簡を届けて下さったという事は、あなた方も私と一蓮托生」
 ライナーはまるで独り言のように呟いてから手紙をジムゾンに渡した。促されるままジムゾンとディーターは手紙を見た。手紙の冒頭は、突然屋敷を辞した事に対する謝罪だった。そして次いだ本題にジムゾンは我が目を疑った。そこには、皇帝軍総司令であるフリートラント侯ことヴァレンシュタインの暗殺計画を聞いてしまった事についてが書かれてあった。


個人誌「恩愛の夜明け」本編へ続く